20世紀最大の巨匠の一人アンリ・マティス(1869-1954) は、後半生を過ごした南フランス・ニースにて、様々な色が塗られた紙をハサミで切り取る技法
「切り紙絵」 による作品を精力的に制作しました。 この技法によってマティスは、彼の言葉を借りれば 「デッサンと色彩の永遠の葛藤」 を解決し、新たな芸術表現を切り拓きました。 |
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'2024 2_13 国立新美術館 「マティス 自由なフォルム」 のプレス内覧会風景と、図録、「PRESS RELEASE」 などからの抜粋文章です。 |
「マティス 自由なフォルム」 |
「マティス 自由なフォルム」 の図録、Press Release、プレス説明会、他関連よりの抜粋文章です ― | |
「マティス 自由なフォルム」 |
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HENRI MATISSE | Formes libres 展示構成 (カタログの抜粋文、概要説明、他でご紹介しています。) |
'2024 2_13 国立新美術館 「マティス 自由なフォルム」 のプレス内覧会風景と、図録、「PRESS RELEASE」 などからの抜粋文章です。 |
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Section Ⅰ | 色彩の道 | Chemins de la couleur |
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フランス北部、ノール県に穀物商の息子として生まれたマチィスは当初法曹家となることを目指していた。 その後、マティスは法律を放棄し、美術を学ぼうとパリに出る。 1892 年にはギュスターヴ・モロー(1826-1898) の生徒として国立美術学校に非正規で入学。 数年間にわたりアカデミックな教育を受け、生身のモデルや古代彫刻の模刻をデッサンすることになる。 モローは教え子たちを街路で道行く人々をデッサンさせたり、ルーヴル美術館で巨匠たち、とくにティツィアーノ(1490頃-1576)、ルーベンス(1577-1640)、ドラクロワ(1798-1863) ら偉大な色彩画家たちの模写を行わせた。 かくしてマティスはルーヴルで何点も模写をする。 マティスの解釈はレンブラント(1606-1669) に想いを得て光を最重視し、フォルム(形態)どうしの均衡が画面を形づくるさまを大づかみに再現しようとしている。 マティスは早くも 1896 年には印象派主義を発見する。 1898 年には妻アメリーと数ヵ月にわたりコルシカ島に滞在し、新たな光や地中海の豊かに生い茂る緑に霊感を受け、初めて印象主義の手法で描く。 しばらくの間マティスは筆触分割に活路を求めたが決別し、別の色彩言語へと移行していった。 1905 年の秋,、南仏から持ち帰った強烈な色彩の絵画群は、新たな絵画傾向 「フォーヴィスム(野獣派)」 の名で知られることとなる。 この時期マティスは、応用芸術の領域でも色彩を開放する手立てを様々に模索する。 |
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No.001 アンリ・マティス(1869-1954) 《本のある静物》 ポアン=アン=ヴェルマンドワ、1890 年 油彩/カンヴァス 21.5 x 27 cm ニース市マティス美術館蔵 / No.002 アンリ・マティス(1869-1954) 《ダフィッツゾーン・デ・ヘームの「食卓」に基づく静物》 1893 年 油彩/カンヴァス 72 x 100 cm テニース市マティス美術館蔵 / No.010 アンリ・マティス(1869-1954) 《マティス夫人の肖像》 1905 年 油彩/カンヴァス 46 x 38 cm ニース市マティス美術館蔵 / No.009 アンリ・マティス(1869-1954) 《日傘を持つ婦人》 1905 年 油彩/カンヴァス 46 x 37.5 cm ニース市マティス美術館蔵 |
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1890 年マティスは最初の油彩 左・No.001 《本のある静物》 を描きます。 いまだごく型どおりの静物画ですが、1892 年に国立美術学校の象徴主義の画家ギュスターヴ・モロー(1826-1898)のアトリエで制作することが認められ、モローの助言に従い、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品を模写を始めたマティスは No.002 《ダフィッツゾーン・デ・ヘームの「食卓」に基づく静物》 を描きます。 17世紀オランダの画家ヤン・ダフィッツゾーン・デ・ヘーム(1606-1684) の油彩を模写した作例である。/ 1899 年に新印象主義の画家ポール・シニャック(1863-1933)に関心を寄せる。 1905 年、マティスは地中海に面する町コリウールで家族と過ごし、アンドレ・ドラン(1880-1954)とともに色彩を奔放に用いたフォーヴィスム(野獣派)を予期する油彩を描いた。 中・No.010 《マティス夫人の肖像》で は、緑系と赤系の補色関係による対比の効果が試されている。/ No.009 《日傘を持つ婦人》 では、新印象主義が提唱した筆触分割の技法が採用されている。 |
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Section Ⅲ | 舞台装置から大型装飾へ | Du décor à la grande décoration |
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バレエ・リュス(ロシア・バレエ団) を率いるセルゲイ・ディアギレフは、作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーのオペラ 「夜鳴きうぐいす(ナイチンゲール)」 を振付家とともに翻訳した新作のバレエ 「ナイチンゲールの歌」 の舞台装置や衣装(No.070-073) 制作の注文をマティスが引き受けた時、バレエ・リュスはアンドレ・ドランが舞台装置をデザインした 「風変わりな店」 と、パブロ・ピカソ(1881-1973) が舞台装置をデザインした 「三角帽子」 をほぼ同時に上演していた。 後者は 1917 年にパリで、ついで 1919 年にロンドンで成功を収めた 「パラード」 に続くピカソとの協働である。 アンデルセンの物語に想いを得た同バレエは、ナイチンゲールの歌を聞いて中国皇帝の病が癒えるという筋書きである。 マティスはまず小型の模型を組み立て 「舞台を縮小した箱で、舞台装置や小道具、人物はすべて、様々な色で塗った小さな紙片で表してあり、それを箱の中であちこち動かしたのです」 また舞台幕は長さ 19 メートルに及び、そこに拡大転写するための下絵をマティスは自らの手で描いた。 マティスが有名なコレクターで実業家のバーンズから大壁面画の注文を受けたことでマチィスは、ダンスという主題を再び取り上げ、幅約 13 メートル、高さ約 3 メートルに別々のパネル 3 点の 「超人的大きさ」 の作品を描いていく。 1931 年 4 月マティスは縮小版の習作 3 点(No.074-076) をもとに、コンポジションをどのように色づけるかを構想し始める。 |
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No.076 アンリ・マティス(1869-1954) 《ダンス―青色のハーモニー》 ニース、1931 年 油彩/カンヴァス 33 x 87.8 cm ニース市マティス美術館蔵 / No.074 アンリ・マティス(1869-1954) 《ダンス―灰色のハーモニー》 ニース、1931 年 油彩/カンヴァス 33 x 87.8 cm ニース市マティス美術館蔵 / No.071 アンリ・マティス(モンテカルロ・バレエ団のアトリエによる制作) 《「ナイチンゲールの歌」の機械仕掛けのナイチンゲールのための衣装》 1999 年 着丈:155 cm モンテカルロ・バレエ団 / No.073 アンリ・マティス(モンテカルロ・バレエ団のアトリエによる制作) 《「ナイチンゲールの歌」の日本の匠のための衣装》 1999 年 ドレスの着丈:145 cm マントの着丈:151 cm モンテカルロ・バレエ団 / No.070 アンリ・マティス(モンテカルロ・バレエ団のアトリエによる制作) 《「ナイチンゲールの歌」の皇帝のための衣装》 1999 年 チュニックの着丈:147 cm ケープの着丈:311 cm モンテカルロ・バレエ団 / No.072 アンリ・マティス(モンテカルロ・バレエ団のアトリエによる制作) 《「ナイチンゲールの歌」の侍従のための衣装》 1999 年 チュニックの着丈:130 cm モンテカルロ・バレエ団 |
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1930 年から 33 年にかけてマティスは、実業家でコレクターのアルバート・C・バーンズから注文された壁画 〈ダンス〉 の制作に没頭する。 1931 年 4 月頃からマティスは、色彩について考え始め No.75 《ダンス―黄土色のハーモニー》 と 左・No.076 アンリ・マティス(1869-1954) 《ダンス―青色のハーモニー》/ No.074 《ダンス―灰色のハーモニー》 の 3 点の油彩習作が残されている。 各々は基本となる色使いは異なるものの、ダンサーたちの姿勢は同じである。 マティスは最終的に No.074 《ダンス―灰色のハーモニー》 の案を採用し、カンバスの背景を青で塗り始めた。構図を調整するにあたってマティスは、カンヴァスが大きすぎたために色を塗った切り紙絵を用いている。/ 1919 年、マティスはロシアのセルゲイ・ディアギレフから 「ナイチンゲールの歌」 の衣装と舞台装置の制作を依頼された。 アンデルセンの物語をもとにしたこのバレエは、ロシアのダンサーで振付家のレオニード・マシーンによる振り付けで、 1920 年 2月 2日にパリのオペラ座で初めて上演された。 マティスは模型を用いてこの舞台装置のデザインを構想し、衣装のために何枚も習作を描いた。本展に出品されているのは、バレエ・リュスを起源に持つモンテカルロ・バレエ団がジャン=クリストフ・マイヨの指揮によって、1999 年 11 月にオランダのデン・ハーグで 「ナイチンゲールの歌」 を演じた際に再制作された、 No.071 《「ナイチンゲールの歌」の機械仕掛けのナイチンゲールのための衣装》/ No.070 《「ナイチンゲールの歌」の皇帝のための衣装》/ No.072 《「ナイチンゲールの歌」の侍従のための衣装》、そして No.073 《「ナイチンゲールの歌」の日本の匠のための衣装》 の衣裳である。 |
・画像をクリックすると 「 Section Ⅴ | ヴァンスのロザリオ礼拝堂 | La Chapelle du Rosaire à Vence
」 |
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《ダンス》 の習作を制作中のアンリ・マティス はアルバート・C・バーンズから注文された壁画 《ダンス》 の制作のために 1931年、ニースにアトリエとして大きなガレージを借り、《ダンス》 の構図を模索します。 最初マティスは小さな習作で構想を練り、次いで構図を拡大し、大きなガレージで長い竹竿を用いてカンヴァスに粗描しました。 |
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アンリ・マティス (1869-1954) |
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マティスがその 60 年以上におよぶ創造の歩みにおいて、熟慮と思考を重ねた末に到達したのは、助手に色を塗ってもらった紙をハサミで切り抜き、それらを組み合わせて活き活きとした構図に仕立てあげる 「切り紙絵」 でした。 |
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アンリ・マティス | 年 譜 (『マティス 自由なフォルム』 図録よりの抜粋文) | |||
・1869 年 0 歳 12 月 31 日、アンリ=エミール=ブノワ・マティスは、父エミール=イポリット=アンリ・マティスと母アンナ・エロイーズ=ジェラールの長男として北フランスに生まれる。
幼年期を近郊のボアン=アン=ヴェルマンドワで過ごす。 |
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1951 年、マティスが生前、日本で最後の個展 「アンリ・マティス 礼拝堂・油絵・素描・挿絵本」 展を現代の東京国立博物館で国立博物館と読売新聞社の主催によって、開催された。
この展覧会はその後、大阪市立美術館と、岡山県倉敷市の大原美術館へ巡回している。 この時マティスは 81 歳であり、フランスはヴァンスのロザリオ礼拝堂に関連する作品が多数出品されており、礼拝堂の模型、ステンドグラス
《生命の木》 の下絵となる切り紙絵、陶板壁画 《聖ドミニクス》 や 《十字架の道行》 の習作となるデッサンなどが含まれていた。 当時の新聞はこの展覧会が日本で熱狂的に迎え入れられたことを伝えている。
展覧会には昭和天皇と香淳皇后や、吉田茂首相などの要人も訪れており、どれほど注目を集めていたのかがうかがえ知れる。 |
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参考資料:「マティス 自由なフォルム」図録、PRESS RELEASE & 報道資料 、他。 |
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