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東京ステーションギャラリー
東京ステーションギャラリー (東京駅丸の内北口)
〒100-0005 東京都千代田区丸の内 1-9-1


Minami Kunzo Seventy Years On
没後 70 年 南薫造
 今回、東京ステーションギャラリーが取り上げるのは、明治末から昭和にかけて官展の中心作家として活躍した洋画家、南薫造(1883-1950) です。 若き日にイギリスに留学して清新な水彩画に親しみ、帰国後は印象派の画家として評価される一方で、創作版画運動の先駆けとなるような木版画を制作するなど、油絵以外の分野でも新しい時代の美術を模索した作家ですが、これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。
 本展は、文展、帝展・日展の出品作など、現存する南の代表作を網羅するとともに、イギリス留学時代に描かれた水彩画や、朋友の富本憲吉と切磋琢磨した木版画など、南薫造の全貌を伝える決定版の回顧展となります。
「東京ステーションギャラリー」 プレスリリース 2020.11.17. よりの抜粋文章です。

会期: 2021 2/20〔土〕→ 4/11〔日〕 展覧会は終了しました。
休館日: 月曜日(4/5 は開館)
開館時間:10:00~18:00 ※金曜日は 20:00 まで ※入館は閉室30分前まで 
会場:東京ステーションギャラリー (東京駅丸の内北口 改札前)
主催:東京ステーションギャラリー [公益財団法人東日本鉄道文化財団] 、NHK、NHKプロモーション

'2021 2_19 「没後 70 年 南薫造」 展覧会の概要説明会 & プレス内覧会の会場内風景です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

プレス内覧会&説明会「没後 70 年 南薫造」東京ステーションギャラリー

没後 70 年 南薫造
プレス説明会 & 内覧会 '2021 2_19
会場: 東京ステーションギャラリ―



  
自然は常に若く美しくそして正直である

「本展の見どころ」 ―「プレスリリース 2020. 11. 17.」、「没後 70 年 南薫造」 カタログよりの抜粋文章です―

 展覧会の構成は第 1 章~第 4 章まで全 4 章です
・第 1 章 初期 美校時代
・第 2 章 留学時代
・第 3 章 帰国後の活躍
・第 4 章 晩年 郷里で活躍

'2021 2_19 「没後 70 年 南薫造」 展覧会の概要説明 & プレス内覧会の作品の一部をご紹介します。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。
    ―「プレスリリース 2020. 11. 17.」、【没後 70 年「南薫造」】 カタログよりの抜粋文章です―

・第 1 章 初期 美校時代

南薫造No.6《瀬戸内海》、No.5《美校一隅》

南薫造は 1883(明治 16)年、広島県呉市安浦町で医者の父南啓造と妻道子の長男として生まれた。 中学時代(現・広島県立国泰寺高等学校) 寄宿した親戚宅の渡米した南廉平からの感化で西洋画など印象派を知り、西洋画に憧憬、1902(明治 35)年東京美術学校西洋画科に入学、教室は、フランスから帰国したばかりの 岡田三郎助(1969-1939) に学び、西洋画科主任・黒田清輝(1866-1924) に指導を受けた。 油彩のほか水彩画では技術を発揮し、人物画から風景画を好んで描いて、白馬会創立 10 周年記念展に 《燈台守》 《春の朝》 《瀬戸内の水》 を出品、うち 《瀬戸内の水》 は美校買い上げとなった。 美校卒業の 4 ヶ月後、水彩画のさらなる学知から英国を目指して横浜から旅立ち、1907(明治 40)年 9 月、ロンドンに到着、留学生活を始める。

・左 No.6 南薫造1883-1950 《瀬戸内海》 1905 年 油彩・画布 47.5 x 60.5 cm 東京藝術大学
・右 No.5 南薫造1883-1950 《美校一隅》 1904 年 油彩・画布 45.6 x 60.6 cm 広島県立美術館

・左 No.6 《瀬戸内海》1905 年 は、東京美術学校在学中に制作、同年の白馬会創立 10 周年記念展に 《瀬戸内の水》 というタイトルで出品されたものとされ故郷瀬戸内海の柏島の風景が描かれている。 この作品は美校の買上となるなどの評価を得て、南薫造の画壇でのスタートとなった。


・第 3 章 帰国後の活躍

南薫造No.151《ピアノの前の少女》、No.138《ピアノ》

 帰国後の南薫造は、画壇でいち早く評価を築いた。 洋画家による個人展覧会の嚆矢とされる 1910(明治 43)年の「南薫造・有島壬生馬滞欧記念絵画展」で注目を集めると、同年の第 4 回文展では《坐せる女》No.35 で三等賞を受賞。 以後受賞を重ね 10 回展からは若くして審査員に抜擢されている。 新進作家として国民美術協会や日本水彩画会の結成に関わり、また光風会にも参加。 結果的には袂を分かつが、二科会設立につながる文展二科開設運動にも関与している。 作画領域も広げ、油彩画や水彩画に加え、創作版画の先進例となる木版画や、日本画、表紙絵や装幀、神戸・聚楽館(現存せず)の天井画など大作にも挑んだ。 帝国美術院会員として画壇の中心で活躍する一方、東京工業大学や東京美術学校での指導も始まるが、多忙な公務の間を縫って各地で写生も重ねている。 1944(昭和 19)年疎開を決意再び郷里の地を踏んだ。

・左 No.151 南薫造1883-1950 《ピアノの前の少女》 1927 年 油彩・画布 80.5 x 100.0 cm 公益財団法人ひろしま美術館
・右 No.138 南薫造1883-1950 《ピアノ》 1921 年 油彩・画布 103.0 x 83.1 cm 広島県立美術館/平和記念東京博覧会

・左 No.151 《ピアノの前の少女》 壁際に置かれたアップライトピアノに向かう長女を背後から描いた作品。 左側から差し込む光が、画面に強い陰影を与え、立体感を際立させている。 ・右 No.138 《ピアノ》 1918(大正 7) 年、南は東京に自宅とアトリエを新築した。 この作品は真新しい瀟洒な室内と、画家の娘と思われる 2 人の少女が描かれている。


'2021 2_19 「没後 70 年 南薫造」 展覧会の概要説明会 & プレス内覧会の会場内風景です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

 
南薫造
 
洋画家 「南薫造 」 (1883-1950)

「年 譜」カタログ「南薫造」より抜粋しています。

・1883(明治 16)年 7 月 広島県呉市安浦町に医者の父・啓造、母・道子の長男として生まれる。
・1902(明治 35)年 4 月 東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。 岡田三郎助の教室で学ぶ。
・1905(明治 38)年 9 月 白馬会創立 10 周年記念展に《燈台守》《春の朝》《瀬戸内の水》を出品。
・1907(明治 40)年 3 月 東京美術学校西洋科を卒業。 9 月イギリスに留学、ロンドンに到着。 11 月ロイヤル・アカデミーで解剖学の講義を聴講。 この頃高村光太郎と交友。
・1910(明治 43)年 4 月 帰国、郷里に戻る。 5 月第 13 回白馬会展《ワルタムの古寺》《論敦、ハンマースミス橋》《古い豚小屋》《曇り日》《ウインゾー》《風景》《羅馬郊外の古橋》《テームスカ河畔》《テームス河の夕景》を出品。 10 月第 4 回文展に《坐せる女》(三等賞)、《少女》を出品。
・1916(大正 5)年 1 月 インドに向け、永見徳太郎と共に長崎を出発。 博物館や各種の寺院、遺跡等を廻る他、タゴール家を訪問。 インド再訪中の和田三造とも交友、4 月に帰郷。 10 月第 10 回文展に審査員として《五境》《婚礼の夜の催し》《石橋》出品。 以降、審査員を歴任。
・1920(大正 9)年 2 月 第 7 回日本水彩画展に《メーテルリンク「ブルーバード」回想の図》《夏の風景》《睡蓮》を出品。 4 月黒田清輝の貴族院議員当選の祝賀会とバーナード・リーチの帰国送別会に出席。第 8 回光風会展油彩《草花》《果樹園》《静物》《湖畔午後》《冬》《海濱》《山麓の村》、水彩《農夫》を出品。 10 月第 2 回帝展に《とりいれ》《緑草》を出品。
・1925(大正 14)年 2 月 第 12 回光風会展に《浪》《静物》《秋》《郊外早春》《海岸風景》《牧場》を出品。 第 12 回日本水彩展に《静物》《雪》を出品。 5-6 月第 4 回朝鮮美術展覧会の審査のため、朝鮮半島に渡る。 京城で同展審査を行うほか、開城、平壌等に滞在。 同地に滞在中に審査を務めた辻永や浅川伯教・巧兄弟らと交友。
・1930(昭和 5)年 2 月 第 17 回光風会展に《風景》《花》、特別陳列「復興の東京」に《明治神宮内苑》《丸の内より日本橋附近を》《芝浦桟橋》《出雲橋畔》及びガラス絵《隅田川》を出品。 10 月第 11 回帝展に《朝》を出品。 10-11 月第 4 回台湾美術展覧会の審査員のため台湾に渡る。 審査後、淡水、髙尾、台南などに滞在。
・1930(昭和10)年 1 月 第 22 回日本水彩展に《ゆり椅子の少女》《プロフィール》出品。 2 月第 22 回光風会展に《野之花》《あかいうわぎ》《野草》《梨花咲く》《洞爺湖畔》を出品。 4 月広島で個展を開催(広島県産業奨励館)。 約 80 点を出品。 5 月長野県に写生旅行。 辻永と丹霞郷に滞在後、建築中の沓掛の別荘に立ち寄り帰京。 7-9 月沓掛に新築した別荘に滞在(谷口吉郎設計)。 10 月第二部会展に《少女》を出品。 静岡県教育委員会主催の美術展覧会の審査にあたる。
・1940(昭和15)年 1 月 小寺健吉、中沢弘光らと調子に写生旅行。 2 月光風会展に《ものり(倣埃及木偶)》《雲の影を走る》を出品。 7 月福島県南相馬市に写生旅行。 10 月加藤静児、辻永と上高地へ写生旅行。 12 月「南薫造近作油絵展覧会」を開催(青樹社)。 22 点を出品。
・1944(昭和19)年 3 月 郷里に疎開。 7 月帝室技芸員に任命される。
・1949(昭和24)年 2 月 上京。 4 月画室を開放し、自作の展覧会を開催。 6 月小林和作と第 1 回広島県美術展の顧問を務める。 10 月第 5 回日展に《水辺朝》を出品。 5 月に骨折したことから、療養を兼ねて山口県の俵山温泉に滞在して制作。
・1950(昭和25)年 1 月 6 日 死去。

1883(明治16)年、広島で生まれる。 東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助に師事する。 1905 年に白馬会創立 10 周年記念展に出品し初入選。 1907 年、24 歳の時にイギリスに渡る。 同地では、高村光太郎や先輩の洋画家である白瀧幾之介、後に陶芸作家となる富本憲吉らと親しく交わり、フランス、アメリカを経て 1910 年に帰国。 すぐ白馬会第 13 回展に水彩画を出品して白馬会会員となる。 同年、白樺社主催で日本の洋画家による個人展覧会の嚆矢とされる 「南薫造、有島壬生馬滞欧記念絵画展」 を開催。 その後は、白馬会の後身とも言うべき光風会に所属し、一貫して官展(文展・帝展・新文展・日展)の中心的な画家として活躍した。 1937 年、帝国芸術院会員、1941 年に東京美術学校油絵科主任教授となり、1944 年には帝室技芸員に任命された。 1945 年の東京大空襲で自宅、アトリエとともに多くの作品を焼失した。 1950(昭和 25) 年没。



お問合せ:03-3212-2485
美術館サイト:http://www.ejrcf.or.jp/gallery/
主催:東京ステーションギャラリー[公益財団法人 東日本鉄道文化財団] 、NHK、NHKプロモーション

参考資料:Press Release 2020. 11. 17.、「没後 70 年 南薫造」カタログ他。

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